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【前編】『ノー・ディレクション・ホーム ボブ・ディランの日々と音楽』刊行記念 特別対談 菅野ヘッケル氏×藤脇邦夫氏

2018年6月に刊行された『ノー・ディレクション・ホーム ボブ・ディランの日々と音楽』の刊行を記念して、菅野ヘッケルさんと、藤脇邦夫さんのお2人に対談をしていただきました。場所は、アメリカンシンガーソングライターの聖地として有名なお茶の水の「Woodstook Cafe」。熱くボブ・ディランについて語っていただきました。前編後編の2回でお届いたします。



日本におけるディラン本の変遷、そして最新作「ノー・ディレクション・ホーム」について

「ディラン」と知らず「ダイラン」と呼んでいた頃……

藤脇 今回、最新のディラン本『ノー・ディレクション・ホーム ボブ・ディランの日々と音楽』の刊行を機に、これまでの日本におけるディラン本の変遷について、ディラン研究の第一人者である、菅野ヘッケルさんと共に、この機会に振り返ってみたいんですが、まずヘッケルさんから、最初にディランを聴いた時のことから話してもらえますか。

菅野 僕がラジオでディランの「風に吹かれて」を聴いたのが高校1年の時、63年かな、PPMのカバーもその後に聴いたけど、当時はまだそんなに洋楽の情報が簡単に手に入る時代じゃなかった。当時、ミュージック・ライフでディランの特集をした号があったそうだけど、僕はミュージック・ライフを読んでいなかった。だから、情報はレコードのライナーとかになるわけだけど、当時、ディランのレコードの日本発売は日本コロムビアで、初めて日本でディランのレコードが出たのは65年だからね。しかも、そのLPは六集まで出たけど、大胆な日本編集でね。「ブロンド・オン・ブロンド」を一枚ずつのバラにして、そのまま出している(註-1)。「ライク・ア・ローリングストーン」もシングルで出たけど、いわゆるヒットとはほど遠かった。そんな時代だよ。


▲菅野ヘッケル氏

藤脇 中村とうようさんの本によると、「ディラン」という表記というか読み方も違っていたとか。

菅野 そう。ピート・シーガ―が63年に来日した時に直接聞いて、初めて「ディラン」と読むことがわかったらしい。それまでは「ダイラン」だった。

藤脇 「ライタウス・ブラザース」とか、「バート・バカラッチャ」の時代ですからね。

菅野 そんな状況だったけど、どういうわけか、66年に音楽之友社から、鈴木道子さん訳で、サイ&バーバラ・リバコフの「ボブ・ディラン」という評伝が出た。これが日本での最初のディランについての本(書籍) じゃないかな(註-2)。

藤脇 その本は74年に角川文庫から他の訳で出ていますが(池央耿・訳)、やはり、決定版は73年に二見書房から出た、「ボブ・ディラン」(アンソニー・スカデュト)でしょう。僕が最初に買って読んだのもこの本でした。

菅野 当時としてはこれが決定版だった。扱っている時期は、「ニュー・モーニング」前後までだけど。


▲左:藤脇邦夫氏 右:菅野ヘッケル氏

「ボブ・ディラン全詩集」でわかったこと

藤脇 海外でも、この辺りでディランの活動時期が一区切りということで刊行されたのだと思います。つまり、この時期のディランは、74年の復活全米コンサートまで、「バングラ・デシュ・コンサート」、映画「ビリー・ザ・キッド」の出演で、一時期活動を休止していた時期でもあった。レコードとしても、「グレーテスト・ヒット第二集」で何とか話題をつないでいるというか。だから、日本でも、ヘッケルさんが企画した、ディランのレコードを最初からオリジナルで順番にリリースするキャンペーン(72~73年)としては、絶好の時期だったといえますね。

菅野 それまでのバックタイトルを再発売する時期として合っていたことは確かだね。これが終わる頃、復活というか再始動で「プラネット・ウェイブ」のリリースと全米コンサートが始まるから。でも残念なことに、その時ディランは、コロムビアから、アサイラムに移籍してしまった。当然、日本のレコード会社も、ソニーから、ワーナー・パイオニアになって、僕も担当できなくなった。だからというわけでもないけど、休暇を取って、74年の全米コンサートを見に行ったんだ。

藤脇 その辺の詳細は、「レコード・コレクターズ」の「洋楽マン列伝」(註-3)に譲りますが、その復活劇に合わせたのか、この時期、日本でも、今まで述べたものも含めて、その前後、以下のような本が日本でも集中的に出版されています(関連書含む)。

「ロックの時代」晶文社 片岡義男・編訳 1971
「アウトロー・ブルース」晶文社 ポール・ウィリアムズ 1972(原書は69年刊)
「ボブ・ディランの軌跡」主婦と生活社 三橋一夫 1972
「ディラン、風を歌う」晶文社 マイケル・グレイ 1973(原書は72年刊)
「ボブ・ディラン語録」ブロンズ社 三井徹・編訳 1973
「ボブ・ディラン」二見書房 小林宏明・訳 1973(原書は71年刊)
「タランチュラ」角川書店 片岡義男・訳 1973(原書は71年刊)
「ボブ・ディラン全詩集」晶文社 片桐ユズル・中山容訳 1974(原書は72年刊)
「ボブ・ディラン」角川文庫 サイ&バーバラ・リバコフ 1974(原書は66年刊)

菅野 この中で重要なのは「ボブ・ディラン全詩集」だろうね。ディランの歌詞を1冊にまとめたのはこれが初めてだったから。

藤脇 原書の「Writing&Drawing」の発売は72年でしたが、日本版はかなり遅れて刊行された記憶があります。というのは、その前から刊行予告が「宝島」「日本版ローリングストーン」とかに出ていたからで、まさに待望の発売でしたね。

菅野 日本盤レコードの対訳を元にしたものがほとんどだったけど、それ以外の未発表曲とか、追加の詩とかもあって、時間がかかったのかもしれない。ディランの歌詞の訳は、ただ訳せばいいというものじゃないからね。

藤脇 ポピュラーソングの歌詞の翻訳とは違いますからね。ただ意味が通じればいいというものでもない。日本でいう、現代詩の翻訳の世界の範疇になりますから。歌の歌詞全体のイメージをどういう風につかんで、どのように日本語に置き換えていくか。従来の翻訳とは違う意味での「翻訳」が要求されるわけですが。

菅野 それと、日本語にできない部分も当然あるわけで、ディランが書いた真意にどこまで迫ることができたかどうかは微妙な問題だけどね。原文と翻訳を比較しながら、一つの解釈ということで読んでいくしかない。

藤脇 だから、この日本版全詩集が日本語訳だけでなく、原文も一緒になっているので、両方読みながら、またレコードを聴きながら読んでいけばいいわけで、この詩集はディランの詩、歌詞理解の最高のテキストかもしれないですね。
 この詩集の翻訳版刊行で気づいたことは他にもあって、例えばまだ「地下室」は発売されていなかったので、「ベースメントテープ時代」の作品は初めて知るものばかりでした。他にも、レコードには入らなかった曲とか、他のアーティストに書いた未発表の歌詞も掲載されていたので、これもその内聴くことができるのかなという期待と楽しみもあったんですが。でも、この詩集が先に出ていれば、と思ったのが、「ディラン、風を歌う」(晶文社 マイケル・グレイ)です。


▲左はWoodstook Cafe店主・阿部さん

菅野 もちろん、この本も読んだけど、著者のマイケル・グレイによる解釈、分析というぐらいの意味かな。理解できるところもあるけど、そうでないところもある。

藤脇 僕はかなり個人的な、我田引水的な解釈、いわゆる「裏目読み」的な部分が多いのではないかと。ディランの詩の解釈としては、後に刊行された「ボブ・ディラン 詩の研究」(ソニー・マガジンズ ジョン・ハードマン 三浦久・訳 1983)の方が優れていると思いましたね。この本もヘッケルさんが担当されたものですが。

菅野 当時としては、詩の解釈としてはこれが一番読みやすく、分かりやすいと思った。でも、まったく売れなかったね。

藤脇 こうして、日本でのディランの本の刊行を見ていくと、73~74年はニューアルバムのリリース、全米コンサートに合わせて刊行されたともいえますが、以後の刊行も、やはりディランの来日に合わせてのものが多いと思われます。
「ディランが街にやってくる ローリング・サンダー航海日誌」(サンリオ 1978 サム・シェパード 後に河出文庫版)という、「ローリング・サンダーレビュー」の本をこの時期に刊行したのは78年の初来日に合わせたのはもちろんですが、その記録映画の側面もある「レナルド&クララ」も、当時日本公開されていますね。

菅野 そう、一日だけの特別上映だったけど。

藤脇 この後、79~81年のゴスペル時代に「ひと粒の砂にさえも」(ポール・ウィリアムズ プレイガイド・ジャーナル社 1981)が出ていますが、日本でもディランの動向を忠実にフォローしていたともいえます。
 この後、85年の「USAフォーアフリカ」と「バイオグラフ」を経て、ディランは少し模索していたのか、トム・ベティ&ハートブレイカーズと組んでライプに出たり(2回目の来日公演はこの時期)、トラベリン・ウィルベリーズ(1988)にも参加して、以後は、ネバー・エンディング・ツアー(1988~)を開始することになります。
 90年代に入り、91年の「ブートレッグ・シリーズ」のリリースと92年の「30周年記念コンサート」はディランなりの総括だったともいえますが、この時期には総括に相応しく、「ボブ・ディラン大百科(クリントン・ヘイリン 1990 CBSソニー出版)、「ボブ・ディラン 全詩集302篇」(片桐ユズル訳 晶文社 1993)、「ボブ・ディラン 指名手配(ジョン・ポールディ 1993 シンコー・ミュージック テレグラフ編集版)と周辺書が出た後、ミュージシャンとしては起死回生の「タイム・アウト・オブ・マインド」(1997)のリリースで、また新たな活動が始まることになります。




註-1)日本でのディランのレコード発売は、68年にCBSソニーが設立されるまでは、日本コロムビアが米コロムビアと契約しており、65年に初めて、ボブ・ディランのレコードが第一集から第六集まで発売されたが、第五集と第六集は「ブロンド・オン・ブロンド」の1枚ずつのバラ売りだった。解説は、中村とうよう、鈴木道子、三橋一夫。
註-2)雑誌掲載の本格的な評論としては、「脱出=ボブ・ディラン論」(「展望」 ダグラス・ラミス 1969 「イデオロギーとしての英会話」 1976所収)が最初とされている。
註-3)「洋楽マン列伝2」(篠崎弘 ミュージックマガジン 2017)


プロフィール

菅野ヘッケル (スガノ ヘッケル)
1947年生まれ。63年に初めてボブ・ディランの「風に吹かれて」を聞き、瞬時に虜となる。70年にICUを卒業しCBS・ソニー(現ソニー・ミュージック)に入社。10年間ディラン担当ディレクターをつとめ、78年にライヴアルバム『武道館』を制作。86年に独立し、セヴンデイズを設立。74年にシカゴで初めてコンサートを生で体験して以来、いままでにディランのショーを280回以上見ている熱狂的ファン。現在もディラン関係の翻訳やライナーノーツを執筆。主な訳書は『ボブ・ディラン自伝』、『ダウン・ザ・ハイウェイ−−ボブ・ディランの生涯』など。東京在住。

プロフィール

藤脇邦夫 (フジワキ クニオ)
1955年広島県生まれ。大学卒業後、専門学校、業界誌を経て、’82年出版社入社。2015年定年退職。著書に『仮面の道化師』(弓立社)、『出版幻想論』『出版現実論』(ともに太田出版)、『出版アナザーサイド』(本の雑誌社)がある。


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