小学校3年生のときの節分の日に、一人9粒の豆がクラス全員に配られた。節分の豆があまり好きではないのでぼくはうれしくなかった。小学38年生ぐらいになったいまでは、塩茹でした落花生や枝豆は居酒屋で注文するけど、柿ピーのピーはあまり好きじゃない。
当時はドラゴンボールが大流行していたので、節分の豆は仙豆となり男子たちの貴重なアイテムになった。仙豆というのはどんなに死にかけのダメージでも食べれば完全回復する、カリン様という白猫が作る魔法の豆のことだ。
お昼休みにドラゴンボールごっこをして、ダメージをうけても仙豆を食べると回復ができるので、豆をすぐに食べてしまった男子は回復のできないザコ扱いになってしまい、豆を保有している男子が優位になった。豆が有限で貴重なアイテムになったことで、保有数によってヒエラルキーが発生したのだ。小学生のくだらない妄想ごっこだ。
友達が2粒とか3粒で競っているときに、ぼくは豆が好きじゃないから9粒フルで保有していたため、ヒエラルキーのトップになった。とてもくだらない出来事だけど、それは9粒フルで保有していて、しかもその9粒に価値を感じていないから“くだらない”と一蹴できるのだろう。
豆を保有しておらず、ザコ扱いされている子にとってはただ事ではない。豆を保有していない友達がぼくに豆を分けてほしいとお願いしてきた。ぼくは友達が持っていた練り消しと、豆3粒を同じぐらいの質量で交換することを持ちかけた。そして交渉が成立した。
その様子を見ていた別の友達が、シャーペンの芯と豆の交換を打診してきた。シャーペンの芯はそんなにほしくなかったので断った。すると友達はBとかHBなどの黒いシャーペンの芯ではなく、赤色のシャーペンの芯ならどうだ?と交渉してきた。
赤色のシャーペンの芯はめずらしかったので、交渉が成立して豆3粒と交換した。そうやって交換していく様子が気に食わなかったのだろう、クラスのジャイアンみたいなやつが最後の3粒の豆をよこせと脅してきた。
暴力団のような無茶苦茶な要求だけど、ぼくはすんなり3粒の豆を渡した。ジャイアンに殴られるのが嫌だったからだ。殴られて奪われるぐらいなら、差し出してしまったほうがいい、これは海外旅行でも通用する防衛手段だ。
そして豆の価値は今日のお昼休みしか保たず、明日は豆の価値が暴落すると踏んでいた。もしかしたらジャイアンに奪われる悔しさを、自分の中で納得させるためにそう考えたのかもしれない。
予想通り、お昼休みが終わると豆の価値は暴落をして、もともとの節分の豆の価値に戻った。結果としては練り消しと、赤色のシャーペンの芯が残り、ジャイアンに殴られずに済んだ。
節分の豆で物々交換という原始的な経済が生まれたのだ。節分で豆を食べる意味や、美味しさなどの豆本来の価値とは違う付加価値なのでバブル経済ともいえる。豆の価値が暴落をせず、信用を獲得すれば豆がお金の代わりになってもおかしくない。大人になったいま振り返ってもおもしろい出来事だった。