甘いものが食べたくなって、息子とセブンイレブンにいった。
ぼくはセブンイレブンが好きだ、会計時にポイントカードの有無を聞かれないところが最高にいい。
レジには数人の客が並んでいたけど人との距離をとるために、レジからすこし距離のあるパンコーナーのあたりが最後尾になっていた。
ふと目をやるとチョココロネが売っている。「チョココロネじゃん、お父さんこれ好きなんだよね」と息子に教えると「それじゃあ、かっていいよ」と息子に許可された。
お金をだすのはお父さんだから、チョココロネを購入するのにあなたの許可はいらないっすよと心の中でおもいながらも、そんなことをいうのも無粋なので「ありがとう」といいながらチョココロネを一つ手にとった。
そんなエピソードを笑いながら妻にはなしたら「それはあなたが、ゆう君の好きなものを否定しないで買ってあげてるからでしょ」と教えてくれた。
あぁそうか。「そんなのいらないよ」とか「どうせ食べないでしょ」という否定の言葉を息子にかけ続けていれば、チョココロネが好きなんだよねと教えたときに、もしかしたら「そんなのいらないよ」とか「どうせたべないでしょ」という言葉が息子から返ってきたかもしれないのか。
好きなものを否定されるというのは、大人でも子どもでもつらいことだ。それなのに親は子どもの好きなものを否定しがちだ。スーパーのお菓子売り場にいる親子の会話を聞いていると実感する。
息子には否定ではなく肯定が連鎖したようで、ホッとした気持ちになった。
チョココロネの袋をあけてぼくが食べようとしたら、息子が食べたいといいだした。
もちろん快くチョココロネをあげた、こうすることできっと自分の好きなものを誰かに快くあげられるかもしれない。
でも、ぼくもちょっとチョココロネが食べたい。「ちょっとちょうだい」と息子にお願いすると「いいよ!」と快くチョココロネをちぎってすこしくれた。
しかし息子がちぎったのはチョコがまったくない、しっぽの部分だった。
これじゃあただのコロネだ。なんだコロネってコロナかよ。
チョココロネはチョコがあるから美味しいんじゃないか。君が手にしているしっぽがなくなったチョココロネは相対的にチョコが増量されて、美味しさがアップしているじゃないか。
でもそんなことをいうのも無粋なので「ありがとう」といいながら食べた。
つぎからチョココロネは2つ買おうとおもう。