“「家に帰るまでが遠足です」小学生が遠足の解散時にいわれる言葉だ。定番ネタのようになっていて、ちょっとバカにされたりもするけど、この言葉は旅なれた人の言葉だとおもう。
ぼくは出張がおおい仕事のうえに、旅が趣味なので独身のころは一年の半分ぐらい家をあけていた。いまも愛媛の松山に向かう機内でこの原稿を書いている。
帰りはフェリーでのんびりと広島にでて新幹線をつかって東京にもどるか、それとも瀬戸内海沿いの路線をのんびりとすすみ、電車で海をわたって岡山にでてもどるか、そんなことを原稿を書きながら考えていたら、おもわず原稿に書いてしまった。
旅というのは出発地と目的地の点と点をむすぶ線なのだとおもう。旅の線は出会った人や一緒にいる人、食べたものや目にした景色、移動のルートなどでかわる。線の太さや濃度だって途中で変わるのかもしれない。ぼくは旅なれた生活をしているけど、おなじ線の旅は一つもない。だからなんど旅をしてもあきることはない。
空港に到着してCAさんに笑顔で見送られることも、いま手にしている機内誌も旅の線の一部なのだ。そしてあなたもぼくも、きっとだれかの旅の線の一部になっている。
旅の最終的な目的地はいつだって自宅だ、無事に帰宅するまでが旅だとおもう。玄関をあけて荷物をおき、すこし寂しくなったり、安心したりいろんな感情がわいて、誰かに旅のことを話したくなる、それが旅だ。
子どものころは意味がわからなくて笑っていたことも、大人になって経験をつんでみると意味がわかったりする。きっとそれが成長なんだとおもう、旅は人を成長させてくれる。”
じつはこれは航空会社の機内誌に掲載する予定の原稿だった。旅の本を紹介してくださいと依頼されて、どこかでうっかりと勘違いして旅そのものの原稿を書いてしまった。締め切りが明日であわてて旅の本のことを書いている。
締め切りの朝になってこの原稿を出さなくてよかった。そしてここで書いた原稿を掲載することができてよかった。とにかく結果としてはよかったのだ。