主人公の少女は毎朝、黒い制服を身に纏い個を没する集団の一片となり「良妻賢母を量産する」地方の女子高校に登校している。彼女の一人称が「僕」なのは大人に取り上げられた個性を取り戻すためでもなんでもなく、それが彼女にとっては自然な魂のかたちだから。しかし男や大人は少女の生態にいちいち理由を付けたがる。自分の理解の範疇にないものが怖いから、己を「僕」と称する少女たちを自分の経験や知識の中に押し込めようとする。鬱陶しい。僕は僕だ。この魂のかたちは誰にも変えられやしない。
本書に収録されている「僕はかぐや姫」の単行本は、二十七年間ずっと私の本棚の「宝物コーナー」(常時三冊・入れ替え制)に入っている本である。私の血の中には様々な作家の物語が流れているが、骨はこの「僕はかぐや姫」ただ一篇によって形成されているに等しく、復刊するにあたってこういった文章を書けるのは僥倖以外の何物でもない。でも、少し怖い。好きすぎて、恐れ多くて。
実は同じ本を四冊買っている。人に貸して返ってこなかったのが三冊あるからだ。出会いはたしか「進研ゼミ」の小さな投書コーナーだった。同じ教材で勉強をしている見知らぬ誰かが「説明しにくいけど面白い」的な文章を書いていたのを読んで興味を持ち(刊行がベネッセコーポレーションの前身である福武書店だったため、今思えば投書に見せかけたステマだったのかもしれないが)、高校の帰りに書店で買い、家に帰って開いた。キイチゴの種をひとつひとつ奥歯で噛み潰して嚥下するが如くすべての文字を体内に取り込んでゆき、最後の苦い一粒を泣きながら呑み込んだあと、部屋の低い天井を仰いだ。
「世界はここ以外にもある」
内容に関しては先入観なしに読んでほしいから、なるべく触れないでおきたい。が、今こうして改めて読んでみて、十五歳でこの本に出会えたのは人生で一番の幸運だったと思う。それまでもたくさんの本を読み、多くのことを学んでいたものの、子供ながらに現実は現実として、夢物語は夢物語として理解する分別があった。しかしこの本は私の前に現れた初めての、現実と地続きの夢、もしかしたら存在しているかもしれない焦がれて止まない世界だった。
当時私は女の子が好きで男の子が嫌いだった。ここ数年でセクシャルマイノリティという言葉が市民権を得たが、三十年近く前は同性が好きというのは秘めなければならない感情で、たとえ公に「○○先輩(女)のお気に入り」としての立場を確立していても、本気の恋愛ではない、一過性の感情だと自分に言い聞かせなければならなかった。当時の大人がどうだったのかは知らないが、少なくともインターネットや携帯電話がなかった時代の、生きる世界が家と学校と習い事だけの昭和生まれの女子中高生にとっては、親や教師の言葉や行動、彼らにとっての「常識」が狭い世界の絶対的な法律だった。
それに比べて文学の、なんという広さか。なんという治外法権ぶりか。
否、「僕はかぐや姫」に描かれる世界は現実で自分が生きていた世界よりも狭くて息苦しい。しかしその紫煙とコーヒーの香りの入り混じる古い校舎の息苦しさが逆に心地よく、矛盾を伴うが深く呼吸ができる気がした。読者と同じ現実を共有する異世界の混沌に揺蕩いながら、彼女たちはそれぞれの美学に則って生きている。己を「僕」と呼べる瞬間を享受し、自らの発する輝きを黒い制服に封じ込め、刻一刻と失われる尊き十七歳を惜しむ。十七歳はいずれ十八歳になるという恐怖と毎日戦わなければならない歳だ。焦燥感と裏腹に、自覚なく彼女たちの放つ光は増す。
最後の数ページにさしかかると、死に至る病の眩耀にいつも心を引き裂かれる。「あ」にならないよう、ちゃんと「わ」になるよう、主人公のチダヒロミはある単語を口にする。魂を鎧うた菫青石の結晶(たとえそれが実はちっぽけなただのガラスだったのだとしても)を自ら叩き割り、本当は空気圧で潰れてしまうくらい脆い裸の魂を、滑らかなびろうどの袋に入れ替える儀式。初めて読んだときはいずれ自分にも訪れるであろうその瞬間を思い、恐怖と悲しみにぼろぼろ泣いた。そして四十二歳になった今読み返してみても、かつて同じ行程を経て、現在はふっかふかでぬっくぬくの極暖ヒートテックみたいなものにくるまれている私の魂が、元あった石の高潔な硬さと冷たさを恋しがる痛みに涙が出た。ねえチダヒロミ、私はずいぶん遠くまで来てしまった。ただ、君が手放し、紫陽花の陰で途方に暮れていたであろう某(なにがし)は、私が捕獲し自分の骨にしたのでどうか安心してほしい。もし一部でも返してほしければ肋骨の一本くらいなら差し上げますから、連絡待ってますよ、チダヒロミ。
後日、著者の松村栄子さんは芥川賞を受賞された。文藝春秋本誌で受賞作の「至高聖所(アバトーン)」を読んだ当時の私はまだ高校生で、描かれる「大学」がどんなところなのかそもそもよく判らなかったのだが、今回再読してみて、随所からチダヒロミイズムを感じる少女が非常にうまく成長している様子に安堵した。ただ、十八歳の壁を越えても、たぶん二十歳の壁を越えても、かつて魂のかたちが「僕」だった女は、社会と己の不一致に大なり小なり苦しめられつづけるだろう。だから、つらくなったときにはこの本を読み返してほしい。その不一致に伴う痛みは紛れもなくあなたの光輝だ。
- 宮木あや子 (みやぎ・あやこ)
- 1976年、神奈川県生まれ。2006年『花宵道中』で第5回「女による女のためのR-18文学賞」で大賞と読者賞をW受賞しデビュー。著書に『官能と少女』『帝国の女』『喉の奥なら傷ついてもばれない』「校閲ガール」シリーズなどがある。