2017年10月5日発売 本体価格1,600円(税別) 判型 四六判並製 374ページ
ISBN 978-4-591-14272-1
さよならのとき
ひとつの物語を描くということは、ひとつの世界を自分の中に作り上げ、原稿を書いている間、その中に生きるということです。舞台としたその場所を自分の足で歩き、風景を見渡して、からだに風を感じ、空気の匂いを嗅ぎ、聞こえてくる音を耳に感じるような、そんな日々を過ごします。
その時期には、日常の中で暮らしていながら、心は違う場所にあるので、ふとした瞬間に、情景が二重写しに見えてきます。この『百貨の魔法』を綴っていた日々ですと、昼どきの台所の窓の向こうに、物語の舞台――夕暮れの光に包まれ、照明に彩られた星野百貨店の姿が見えたりしました。からくり時計が時を告げるオルゴールのメロディや、鐘の音が聞こえてきたりも。
描くことそのものが快楽なので、パソコンの前で堅くなったサンドイッチを食べ、栄養ドリンクを口にしていても、心は美しいシャンデリアの下を歩いていて、他には何も要らないような、そんな笑みを浮かべていました。不幸そうでも幸福な日々の積み重ねのうちに、作品は少しずつ書き上がってゆくのです。
そんな風に、どこか夢うつつの、魂の根が違う世界にあるような日々を過ごすので、何らかの事情があって描くことを中断しなくてはいけなくなったりした場合は、根がちぎられる植物のような、痛みと苦しさを感じます。
『百貨の魔法』の場合は、約二年間に渡って描いていたので、他の仕事との兼ね合いで、三回も中断しなくてはいけない機会がありました。それがあまりに辛かったので、中断していた間に書いたうちの二作、『コンビニたそがれ堂 祝福の庭』(ポプラ社)、そして、『桜風堂ものがたり』(PHP研究所)には、星野百貨店を登場させてしまいました。
ふりかえると頭を抱えたくなるような所業なのですが、それほどにこの物語の世界と別れがたかったのでした。どこかでつながっていないと、この世界との糸が切れてしまうような、そんな気持ちだったのかも知れません。
いろんな街にありそうな、あるいはあったような、古い百貨店。そこで真摯に働く人々が呟いた願い事を叶えてゆく魔法の子猫。奇跡との出会いによって、明るい方へと踏み出すためのささやかな力を得てゆく彼ら彼女らの物語を描くのはほんとうに楽しかった。現実の街の、明日を夢見ながら生きている人々に、そして自分にも、いつかこんな不思議な出来事があるかも知れない、きっとあるよ、と祝福の魔法をかけるような気持ちになっていたからかも知れません。どうかみんな、幸せに、と。
いまめでたくこの物語を書き上げて、今度こそわたしは、この世界とさよならをします。
入れ替わりに、この百貨店を訪れる、たくさんの読者の皆様に、いらっしゃいませの挨拶をしながら。この百貨店とそこで働くみんなのことを気に入ってくださるといいなあ、と、願いながら。
何か美味しいものでも食べに行きたいな、それとも作ろうかな、なんて考えながら。
著者:村山早紀(むらやま・さき)
1963年長崎県生まれ。『ちいさいえりちゃん』で毎日童話新人賞最優秀賞、第4回椋鳩十児童文学賞を受賞。『シェーラひめのぼうけん』(童心社)、『砂漠の歌姫』(偕成社)、『コンビニたそがれ堂』、『カフェかもめ亭』、『海馬亭通信』、『ルリユール』、『その本の物語』、『天空のミラクル』、『はるかな空の東』(以上、ポプラ社)、『花咲家の人々』、『竜宮ホテル』(以上、徳間書店)、『かなりや荘浪漫』(集英社)、2017年本屋大賞ノミネートで話題となった『桜風堂ものがたり』(PHP研究所)など著書多数。
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