世界わらないなら、
何度びつづけたい―

直木賞受賞作『サラバ!』から二年。西加奈子さん待望の新作小説『i(アイ)』が発売され、大きな反響を呼んでいる。どのような想いからこの物語が紡がれたのか、西さんにお話を伺った。
(取材・構成 / 瀧井朝世 写真 / 若木信吾)

Interview1

シリアに思いをはせる話を書きたくなった

「友達と話していたんです。最近、愛が足りないんじゃないかなって。自戒を込めて、愛せてないし、愛されていない。それでああ、自分は今愛について書きたいんだなって気づいたんです」
直木賞受賞作『サラバ!』から2年。西加奈子の新作長篇『i』は、現在進行形の切実な思いをぶつけた一作となった。「実は次はLGBTについて書こうと思っていたんです。自分がLかGかBかTか分からない、どこに属するかも分からないQ(=Questioning)という概念が素晴しいなと思って。でも、究極私たちが最初に属すアルファベットがあるとすればI(=自分)だな、ということは思っていました」

その間、国内のヘイト問題や、シリア難民のニュースを見て、思うところが溜まっていった。胸に突き刺さったのは世界中に衝撃を与えた、あるニュースの写真だった。
「だからどうしても、シリアに思いをはせる話を書きたくなったんです」

主人公の名前はワイルド曽田アイ、1988年生まれ。赤ん坊の頃にシリアからニューヨークにわたりダニエルと綾子夫婦の養子となった。小学6年生の時に父の転勤により来日。現在高校生の彼女はずっと、自分の恵まれた環境に罪悪感をおぼえている。〈選ばれた自分がいるということは、選ばれなかった誰かがいるということだ〉、と。
「例えば貧困が蔓延する過酷な国からいわゆるセレブの養子になる子がいる。その子がいつか自分の”母国”のことを知ったらどんな風に思うのだろうと思う。
それとは別に、友達で、実の親に対して”この人たちはなんでこんなに優しいんだろうと思ってた”という子がいて、印象に残っていて。それでアイちゃんは自分の環境を疑う、とことんデリケートな子になっていきました」

この類の罪悪感は、これまでの西さんの作品世界にも見え隠れしてきた。
「エジプトに住んでいた小学生の頃、靴をはいていないエジプシャンの子たちと遊びながら、自分だけいい服を着ているのがずっと恥ずかしかったんです。なんで自分だけ大きな家に住んでいるんだろうと思っていました。その気持ちが強いのかもしれない。もうひとつ強烈に覚えていることは、みんな異分子であるはずの私に本当に優しかったんです。クリスマスにはイスラム教徒の人たちも”メリークリスマス”って声をかけてくれました。それは彼らにとって自分たちの神を冒涜することじゃないんですよね。自分たちは譲り合える、ということなんですよね」

でも今、世界は譲り合っていない。アイも9・11をはじめ、各国の凄惨なニュースを見るたびに、苦しみ、祈り続ける。やがて彼女は、海外の大きなニュースの死者を書き留めるようになる。
「アイちゃんは誰かが死んでいる時に安穏としていられない。自分のことを傷つけなければ苦しいんです。死んだ人たちに対して”少なくとも私はあなたたちのことを知っている”と思いたいんです。いずれ書き留めなくても思いをはせられるようになるだろうけれど、今はまだこの子には、このノートは必要なんです」

遠くの大量死にばかり目を向けるのはどうか、と問う人もいるだろう。 「本の中にも書いたけれど、身近な個別の死のことまで考えるのは辛すぎるのではないでしょうか。私も交番の交通事故死の数を見るのが苦しいです。確かに遠いところにある死ばかりを考えるのはどうかと思う。でも、アイちゃんのようにアイデンティティが揺らいでいるシリア生まれの女の子にとって、日本の中で誰かが死ぬことよりも、遠くにいる人の死のほうがビビッドに響くんじゃないかと思いました」

Interview2

個人を大切にすると 世界を愛せないわけじゃない

そんな彼女に安らぎを与えてくれるのが、数学だ。本作のタイトル「i」には、虚数という意味もある。
「高校の最初の授業で、数学の先生が”この世界にアイは存在しません”って言ったんです。虚数の”i”のことだったんですが、私はその時”愛”のことかと思ってドキッとしました」
この教師の言葉は、作中でも何度も繰り返される。アイが自分を確立できずにいることや、世界に愛がないことを指しているようであり、虚数のように目には見えないのに概念として存在しているものを指しているようにも思えてくる。この言葉はアイの胸にも居座り続け、彼女は数学に魅了されていく。「書くにあたって大学院で数学を研究していた人たちに話を訊きに行ったら、ものすごく面白くて。物理学などとは違い、数学は何かに役立てようという目的がないんですって。みなさん、ただ数式や定理を作るために研究している。めちゃくちゃ孤独といえば孤独ですよね。でも、ただそれだけに没頭出来る時間は安全な檻のようでもある。だからアイちゃんは世界から耳をふさぎたくなった時は数学に没頭するんです」

彼女に安らぎを与える存在は他にもいる。友人のミナ、そして原発反対のデモで出会うユウという写真家の男だ。
「ミナちゃんは最初、違う名前でした。でも途中でこれは”みんな”を表す存在だなと気づき、この名前にしました。ユウ君はもちろん、Youの意味ですね。この二人はすごく優しいでしょう。それは世界がそうあってほしいし、誰か個人に対して自分たちが〝世界〟だとしたら、自分も優しくありたいからです」

院に進んで数学の研究を続けるアイは、やがて結婚し、子どもを作ろうとする。独自の生き方を選ぶのでなく、多くの人と同じような道を歩むのは、「アイちゃんは自分というものが揺らいでいるから、何かに属することで安心するような子なんです。でも、自分発信、つまり”i”発信になったなら、アイちゃんはきっと変わる。その結果どこかに属したとしても、属することがスタートであった時とは違うんです。アイちゃんは最初、ミナがいてくれてユウがいてくれて自分がいると思っている。でもそうじゃないんですよね。私がいるから、みんながいて、あなたがいるんですよね」
最後の海辺の場面には、その思いをこめた。
「アイが自由やアイデンティティを獲得していくのを、ミナが見守ってくれている。そしてアイも、ミナを温めることができる。そういう場面を書きたかった。最近では道徳の教科書に”あなたの自由がみんなの迷惑にならないように”といった記述がありますが、個人を大切にすると世界を愛せないわけじゃない。個人が世界という海で自由に泳ぐことを見守ってほしいし見守りたいんです。世界と個人はもっとイーブンなんだよってことを、今の日本で言いたい。特に小さい子たちの中に、”何かのためでないと存在してはいけない”と思っている子がいるとしたら、”もっと自由でいいんだよ”って言いたいです」

Interview3

人は一人じゃないんだと、いつも思う

自ら描き下ろした挿画は、そんなラストシーンをイメージした。ダイナミックな曲線のうねりに目を奪われる。
「人間は曲線でできているのに、人間が作るものは直線が多いですよね。国境だって、ドーンと直線で引かれていたりするでしょう。もっと柔らかくありたいなと思う。海って直線のものがないですよね。母親の胎内も曲線ばかり。そうした柔らかな場所からもう一回生まれたい。この小説を書くことでそれを追体験したかった」

作家としての思いは、写真家のユウにも託されている。シリアの現状について「写真家として撮りたい、そう思っているだけでは撮ってはいけないことだと思う」と彼は語るが、
「私もシリア人でないしシリア人の友達もいないし、養子の友達もいない。それなのに書いていいのか迷いはすごくありました。でも、やっぱり、愛があるかどうかが大事だという結論に至りました。作家としての名声を得たいとかそんなことじゃなくて、とにかく愛について叫びたい。ティム・オブライエンがベトナム戦争から生きのびて帰ってきたことを書き、アレクサンダル・ヘモンがサラエヴォが戦火に遭っている時にアメリカで生きていることを書くのは、”生きている人しか書けない”からだと思うんです。うしろめたさがあっても、愛にもとづいての行為であるなら、表現者は絶対にやるべきだと思う。誰かを決定的に傷つけることもあるし、許されないこともあると思う。でも私は書きたいんです。この小説でその決意表明をしたつもりです」

書くことへと背中を押したのは、本作にも登場するA・ナフィーシーの『テヘランでロリータを読む』の存在も大きかっただろう。1990年代、テヘランで極秘に女性だけで禁書である西欧小説の読書会を開いた体験が綴られている。「本の中で引用した部分は、いまだに声に出して読むと泣いてしまう。これは20年前のことだから著者も書くことができたんでしょうね。でも、同じことは今もどこかで起きている。現在進行形なんだと知らせるために、書かなければいけないことはあると思う」

もちろん、表現の手段を持たなくても、できることはある。
「考え続けること、話し合い続けること。弱っている時に思考停止することがあってもいい。そういう時は、他の誰かが考えて行動してくれている。ベタな言い方ですが、人は一人じゃないんだと、いつも思います」

現在の思いを詰め込んだ作品を書き上げた感触はというと、
「何度も決意表明するなんてダサいけど(笑)、格好悪いとは思っていないです。9・11の後にBlack Eyed Peasが〈Where Is The Love?〉という歌を出して話題になりましたが、彼らは今年、その別バージョンをまた出したんです。一回歌ったからもういいじゃなくて、あんなに歌ったのに世界は変わらない、だからまだ歌うってこと。世界が変わらないなら、私も同じことを何度も叫び続けていいんだと思っています」

インタビュー動画

書誌情報

i 書影

『i(アイ)』

西加奈子

シリアで生まれた少女は、アメリカでダニエルと綾子夫婦の養子となり、アイと名づけられる。両親の深い愛に包まれながらも、その環境をただ恵まれたものとして受け入れることができず、アイは孤立感を深めていく。その後、日本へ移住したアイは、高校の入学式の翌日、数学教師の「この世界にアイは存在しません。」という言葉に、強い衝撃を受ける--。

i 書影

定価:本体1,500円(税別)発売中
詳細:詳細はこちら

『i(アイ)』特設サイト
http://www.poplar.co.jp/pr/i/

著者プロフィール

西加奈子

西加奈子(にし・かなこ)

1977年、テヘラン生まれ。カイロ・大阪育ち。
2004年、『あおい』でデビュー。
2007年に『通天閣』で織田作之助賞、
2013年に『ふくわらい』で河合隼雄賞受賞。
2015年に『サラバ!』で直木三十五賞受賞。
ほか著書に『さくら』『きいろいゾウ』『円卓』
『漁港の肉子ちゃん』『舞台』『ふる』『まく子』、
絵本に『きいろいゾウ』『めだまとやぎ』『きみはうみ』など多数。