ポプラ社 百年文庫

名短篇の本棚です

全巻ラインナップ

惚
82
惚

斎藤緑雨『油地獄』
田村俊子『春の晩』
尾崎紅葉『恋山賎』


Illustration(c)Sumako Yasui

あの人の香りが
波のように私をさらう

柳橋芸者に入れあげて、独り合点な恋に一喜一憂する書生・貞之進。若い男の自意識と、花柳界の恋のからくりを、明治文壇きっての批評家が描く(斎藤緑雨『油地獄』)。香気を含んだ春の雨が、幾重の情念をそっと揺り起こす。放埓で繊細な愛と性(田村俊子『春の晩』)。白い指先、かぐわしい香り、都会育ちの娘は噂にたがわぬ美しさだった。いずれ叶わぬ山男の恋心を、春の情趣豊かに綴る尾崎紅葉『恋山賤』。甘く切なく、ほろ苦い。恋に焦がれる物語三篇。

著者紹介

斎藤緑雨 さいとう・りょくう 1868-1904
伊勢生まれ。本名・賢(まさる)。明治法律学校中退後、仮名垣魯文の弟子に。批評家・正直正太夫として文壇で認められ、小説と評論の両分野で活躍した。樋口一葉を高く評価したことでも知られる。代表作に『油地獄』『かくれんぼ』など。

田村俊子 たむら・としこ 1884-1945
東京・浅草生まれ。本名・佐藤とし。日本女子大学中退後、幸田露伴門下に入る。女優を経て、懸賞小説に当選して文壇デビュー。官能的な表現で男女の相克を描き、大正期を代表する女流作家となった。代表作に『女作者』『木乃伊の口紅』『炮烙の刑』など。

尾崎紅葉  おざき・こうよう 1868-1903
江戸・芝中門前町生まれ。本名・徳太郎。明治文壇の一大勢力となる硯友社を率い、1889年の『二人比丘尼色懺悔』で人気作家に。泉鏡花、徳田秋声など多くの弟子を育てて、日本近代文学の発展に大きな役割を果たした。その他の代表作に『多情多恨』『金色夜叉』など。

編集者より

「惚」の読みは「ほれる」ですが、「ぼける」とも読めますね。この文字に相応しく、冒頭の『油地獄』は理性を失うほど芸者に入れ込んでしまった男の物語。著者の斎藤緑雨は皮肉っぽい批評家としても有名だった作家です。文壇の注目を集めるきっかけとなった『小説八宗』は、当時の人気作家を戯画化したもので、たとえば二葉宗(二葉亭四迷)は、「台がオロシヤゆえ緻密緻密と滅法緻密がるをよし」として、「煙管を持った煙草を丸めた雁首へ入れた火をつけた吸った煙を吹いた」という具合に書くといって、二葉亭四迷の写実主義をからかっています。この辛辣さは『油地獄』でも存分に発揮されていますので、辛口がお好みの方はぜひお試しのほどを。(A)