よれよれの帽子に、疵だらけのバイオリン。富や名声に執着せず、ただ純粋な音色を求める男のもう一つの幸福(メルヴィル『バイオリン弾き』)。病身の娘マリアに向けた幾千もの薔薇の花…。小さな田舎町で過ごしたあの八週間は、ぼくにとって「特別な人生」だった(トラークル『夢の国』)。もし、あの時あの場所を離れずにいたら、私はどんな人間になっていただろう。故郷ニューヨークに戻った初老の男が、自らの人生にふたたび巡りあう物語(H・ジェイムズ『にぎやかな街角』)。豊かに時が重なりあう、海外作品三篇。
メルヴィルHerman Melville 1819-1891
ニューヨーク生まれの作家。銀行員、教員など職を転々とした後、捕鯨船の船員として南太平洋に赴く。海洋小説『タイピー』で作家デビュー。代表作に小説『白鯨』『バートルビー』、長篇詩『クラレル』など。
トラークル Georg Trakl 1887-1914
オーストリアの詩人。ザルツブルクに生まれ、学生時代は象徴派詩人の影響下に詩作・劇作を始める。ウィーン大学で薬学を学び、薬剤官の傍ら作品を発表。酒と薬物中毒に苦しみ、27年の短い生涯を終えた。作品集として『夢の中のセバスティアン』『黄金の盃から』など。
H・ジェイムズ Henry James 1843-1916
ニューヨーク生まれの作家。ハーバード大学を中退後、執筆活動に入り『デイジー・ミラー』で成功を収める。小説のほか戯曲、批評、旅行記など精力的に執筆、最晩年、活動拠点であったイギリスに帰化した。その他の作品に『ある婦人の肖像』
『ねじの回転』『鳩の翼』など。
いわゆる壮年期というのでしょうか、それなりの社会的地位も得、年齢的にもほぼ折り返し地点を過ぎた男性たちを主人公に、滋味深い人生を描いた三篇が集められました。いずれも味わい深い作品ですが、おすすめはメルヴィルの『バイオリン弾き』。『白鯨』などで知られるメルヴィルですが、生前の評価は低く、40代後半で作家を断念。以降は、税関職員として勤めながら自費出版で詩集を出し、生涯を終えました。作品のテーマと作家の人生を重ね合わせると、また違った読み方もできそうです。(S)