ドアが開いて現れたのは「わたくし」にそっくりな娘だった…。亡き双子の姉との不可思議な交流を描いた吉屋信子の『もう一人の私』。裕福な家庭に育った彼は父の口利きで一流会社に就職が決まりかけたが…。青年の潔癖さと世間との埋まらない距離(山本有三『チョコレート』)。「詩人」はぶらりとやってきては「私」の煙草を吸い、借金を申し込み、酒を飲んで帰っていく。生活は破綻しつつも純粋な心を持ちつづけた男の生涯(石川達三『自由詩人』)。心を照らす他者の存在、我と汝の物語。
吉屋信子 よしや・のぶこ 1896-1973
新潟県生まれ。10代のころから雑誌に投稿するようになり、1916年から「少女画報」に連載した『花物語』が好評を博し、ロングセラーとなった。52年に『鬼火』で女流文学者賞を受賞。他の作品に『あの道この道』『女人平家』など。
山本有三 やまもと・ゆうぞう 1887-1974
栃木県生まれ。本名は勇造。東大在学中に第三次「新思潮」の創刊に参加。社会劇で新進劇作家として名を上げる。文芸家協会の設立にも尽力し、『真実一路』『路傍の石』など、人道主義に根差した小説で多くの読者を獲得した。
石川達三 いしかわ・たつぞう 1905-1985
秋田県生まれ。早稲田大学を1年で退学した後、1930年、移民船でブラジルに渡り半年で帰国。その体験をもとにした『蒼氓』で第1回芥川賞を受賞。戦後は主に社会派作家として活躍した。代表作に『風にそよぐ葦』『青春の蹉跌』など。
人間は、いつも他人を鏡にして自分を認識する存在。だから「汝」とは、それは同時に「私自身」の姿でもあるのだ――吉屋信子の『もう一人の私』と石川達三の『自由詩人』は、ここではないどこかで別の人生を生きていたかもしれない「もう一人の自分」の可能性を想像せずにはいられない作品です。山本有三の『チョコレート』は、『路傍の石』のイメージとはまた少し違った軽やかさを持ち合わせていて、いままさに就職活動で悩んでいる若者にも共感を持って読んでいただけそうな作品。作家それぞれの人生観が色濃く投影された三作品です。(R)