「おとよさアが省作さアに惚れてる」甥の一言に、省作は顔がほてり胸が鳴る。突如芽生えた恋心に煩悶する農家の青年の胸の内(伊藤左千夫『隣の嫁』)。山奥で炭を焼くことしか知らなかった若者が、桜の花見に来たお嬢さんに触れたことから切ない憧れを抱きはじめる『炭焼の煙』(江見水蔭)。諸国を渡り歩いてきた商人が辰己芸者に惚れた。深川花柳界に繰り広げられる男と女の伊達と侠気(吉川英治『春の雁』)。かなわずとも潔い恋のあれこれ。
伊藤左千夫 いとう・さちお 1864-1913
歌人、小説家。千葉県生まれ。正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会の中心となり短歌雑誌「馬酔木」「アララギ」を創刊。小説も執筆し、代表作に子規の写生文に影響を受けた『野菊の墓』、自伝的要素の強い『隣の嫁』『春の潮』などがある。
江見水蔭 えみ・すいいん 1869-1934
小説家、雑誌発行者、紀行家、探検家。岡山市生まれ。本名忠功(ただかつ)。尾崎紅葉の硯友社同人を経て探偵小説『女房殺し』で人気作家となる。『地底探検記』『空中飛行器』などの探検小説、児童読物も多く手がけた。講演旅行中の松山で肺炎で客死。
吉川英治 よしかわ・えいじ 1892-1962
小説家。神奈川県生まれ。本名英次(ひでつぐ)。幼少時に家が没落し、小学校を中退。さまざまな仕事につきながら独学、1925年「キング」誌連載の『剣難女難』、および26年の『鳴門秘帖』で一躍花形作家となる。代表作は『宮本武蔵』『新・平家物語』など。
『隣の嫁』『炭焼の煙』の朴訥な青年と、『春の雁』の抜け目ない青年、それぞれの恋の始まりを描いた三篇。何気ない日常の風景が、がらっと変わる瞬間は鮮やかです。また、どの短篇も描き出す情景が美しく、恋の嬉しさ、苦しさ、切なさをじんわり感じることができます。花柳界を舞台にした『春の雁』は、日本文化の美しい世界に浸ることができます。(Y)