歴史の楽しみかた

戦国時代は、大きな合戦によって、その後の歴史の流れが大きく変わる時代だった。これらの合戦には、おもしろいエピソードも多い。ここではその中から、
織田信長(おだのぶなが)が今川義元(いまがわよしもと)の大軍をやぶった「桶狭間(おけはざま)の合戦」
日本中が東軍と西軍に分かれ、天下をあらそった「関ヶ原(せきがはら)の合戦」
豊臣(とよとみ)家がほろび、265年続く徳川(とくがわ)政権のはじまりとなった「大坂(おおさか)冬の陣(じん)・夏の陣」
の三つの合戦を紹介しよう。

  • 桶狭間の戦い
  • 大坂冬の陣・夏の陣
  • 関ヶ原の戦い

「コミック版 日本の歴史」では、合戦のようすをくわしく伝えている。

信長への信頼が勝利のカギだった?
「桶狭間の合戦」

信長の奇跡(きせき)の勝利の理由のひとつは、尾張(おわり・愛知県西部)の領民(りょうみん)が義元に信長の動きを知らせなかったため、今川軍は信長が近づいていることを知らなかったことが大きい。ふだんから信長が領民にやさしく接し、領民も信長のことを信頼していたから、領民は信長をうらぎらなかったのだ。今川軍の四万五千の兵を、わずか三千でやぶった戦(いくさ)の奇跡は、信長のふだんのおこないが生んだともいえる。

豊臣秀頼は生きていた?
「大坂冬の陣・夏の陣」

慶長(けいちょう)20年の大坂夏の陣で、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の息子、秀頼(ひでより)は自害(みずから死をえらぶこと)し、豊臣家はほろびた。ところが、秀頼は実は大坂城から脱出し、薩摩(さつま・鹿児島県西部)へ落ちのびたという説がある。秀頼の妻の千姫(せんひめ)が、大坂城から無事に脱出していることから、秀頼もにげだすことは不可能ではなかったというのだ。本物かどうかはわからないが、鹿児島市には、秀頼の墓といわれるものもある。

西軍のうらぎり者、小早川秀秋の軍にも忠義の武将がいた!
「関ヶ原の合戦」

関ヶ原の合戦で、西軍をうらぎり、東軍に勝利をよびこんだ小早川秀秋(こばやかわひであき)。そのうらぎりものの軍の中、重臣の松野重元(まつのしげもと)は、「うらぎりは武士のすることではない」と考え、命令にしたがわなかった。小早川家は秀秋の死後、後つぎがいないため大名家をとりつぶされ、家臣たちは全員収入をうしなってしまうが、重元だけはすぐに次の士官先を見つけた。忠義の武将ということで、特別に評価されたらしい。

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