反逆の疑いをかけられて監獄に送られた母と、その母を告発した罪で兵士に囚われる息子。正義と絆の葛藤が二人に圧し掛かる(ヴィーヒェルト『母』)。四十四歳、付き添い婦のミス・メアリは慎み深い淑女。彼女が生涯でただ一度、かつてない敵愾心をむき出しにした相手とは(キプリング『メアリ・ポストゲイト』)。「八月六日の朝、私は八時頃床を離れた」――被爆直後の広島で一命をとりとめ、戦禍の街を目撃した著者による渾身の記録(原民喜『夏の花』)。人々を、街を、不条理に変貌させた「戦争」。その哀しみを、今なお伝え続ける三篇。
ヴィーヒェルト Ernst Wiechert 1887-1950
ドイツの作家。教職の傍ら執筆し、『カペルナウムの大尉』が国際短篇コンクールで1位に。ナチスに囚われた強制収容所での日々を、『死者の森』に著した。戦後は長篇『イェローミンの子ら』や40篇からなる『童話』を発表している。
キプリング Rudyard Kipling 1865-1936
イギリスの小説家、詩人。英統治下のボンベイ(現・ムンバイ)に生まれ、新聞記者として活躍。インドの自然や生活を舞台に『高原平話』『ジャングル・ブック』『少年キム』など異文化と冒険に満ちた作品を執筆した。1907年にノーベル文学賞を受賞。
原 民喜 はら・たみき 1905-1951
広島市生まれの詩人、作家。慶應義塾大学卒業後、作品集『焔』を自費出版。「三田文学」などに寄稿した。妻の死後、疎開した広島で被爆し、『夏の花』をはじめ原爆体験と死を主題とした作品を発表した。1951年『心願の国』を遺し、自殺。
心の底に静かに灯る、しかしすべてのものを溶かすほどの熱をもった炎のような三篇。ごく普通の暮らしを営んでいた家族や友人を変貌させてゆく戦争。その戦争もまた、人間の手によるものだという哀しみと現実が胸に迫る。ヴィーヒェルトの『母』は、鈴木仁子氏による新訳で、キプリングの『メアリ・ポストゲイト』は橋本槇矩の訳を収録。原民喜の『夏の花』は、2011年7月の今、改めて読み、深く心に刻まれる作品です(R)