長い船旅を終えて帰国した妻は、どこか他人のようなよそよそしさを漂わせていた。愛への渇望と不安に苛まれる男の悲哀(マンスフィールド『見知らぬ人』)。戦争によって没落し、嘘と虚栄を振り回すようになった大人たち。そんな中、一人の叔母の静かな佇まいが深い印象を残す(野溝七生子『ヌマ叔母さん』)。神秘に満ちた幼年時代の庭は、いつしか遠い記憶になってしまった。「アヤメ」の名を持つ女性との出会いがもたらした再生への軌跡(ヘッセ『アヤメ』)。澄んだ瞳が映し出す、生命に満ちた物語。
マンスフィールド Katherine Mansfield 1888-1923
ニュージーランド生まれの作家。20歳でロンドンへ出て、創作活動に専念。短篇集『園遊会、その他』で高く評価されたが、肺患のため34年の短い生涯を終えた。その他の作品に『幸福』『鳩の巣』など。
野溝七生子 のみぞ・なおこ 1897-1987
兵庫県生まれ。東洋大学在学中に執筆した『山梔』が新聞懸賞小説に入選し、作家デビュー。おもな代表作に『女獣心理』『南天屋敷』。比較文学研究者として大学で教鞭をとり、森鷗外に関する論考を多く発表した。
ヘッセ Hermann Hesse 1877-1962
20世紀ドイツ文学を代表する小説家、詩人。南部の小都市カルプの牧師の家に生まれ、書店員時代に書いた『郷愁』で作家生活に入る。両大戦中は非戦論者として平和を訴えた。1946年、ノーベル文学賞を受賞。代表作に『車輪の下』『デミアン』など。
鏡のように硬質で、でも一瞬にして砕けてしまいそうな、繊細な心をたどる作品を集めました。一作目マンスフィールドは、長旅を終えて帰ってきた妻に対して抱く夫の困惑、二作目野溝七生子は戦争が暗い影を落とした時代に生きる一人の女性の存在、三作目ヘッセは幼年時代の夢や充足感を取り戻そうと必死に人生を手繰り寄せる大学教授の話。痛みと緊張、違和感を覚えつつ、必死に生きようとする人々の姿を描いた作品、どうぞお楽しみください。(S)