朝遅く、宿の窓辺に閃々と降り注ぐ光の中で、冬の蝿は手を摩りあわせ、弱よわしく絡み合う。――透明感溢れる文章で綴られた療養地の情景が、生命の輪郭を際立たせる、梶井基次郎『冬の蝿』。「初めて春に逢った気がする」そううそぶいた級友の岡村は自死を遂げた。――若者の胸に去来する青春の光と陰を描いた、中谷孝雄『春の絵巻』。「癩病」を患い虚無に浸る尾田は、同病の義眼の男に出会い、その死生観を大きく揺さぶられる。(北條民雄『いのちの初夜』)。真摯に生き、紡ぎだされたもう一つの青春。
梶井基次郎 かじい・もとじろう 1901-1932
三高在学中から執筆活動を始め、「青空」創刊号に『檸檬』を発表。肺を患い早逝したが、『ある心の風景』『Kの昇天』『闇の絵巻』などの、後世に残る作品を多数残した。
中谷孝雄 なかたに・たかお 1901-1995
三重・津市生まれ。梶井基次郎と「青空」を創刊し、『春の絵巻』で文壇での地位を確立した。代表作に『業平系図』『のどかな戦場』『招魂の賦』『わが陶淵明』などがある。
北條民雄 ほうじょう・たみお 1914-1937
ソウル生まれ。19歳でハンセン病を患う。川端康成と文通しながら病院内で執筆活動を行う。『いのちの初夜』が芥川賞候補になるなど、24歳の若さでこの世を去るまで執筆を続けた。その他の作品に『間木老人』『望郷歌』など。
「歩け。歩け。へたばるまで歩け」――これは梶井基次郎の『冬の蝿』の一文です。非常に気に入っており、帯にも使用しています。死の匂いが濃厚な本作において、読後印象に残っていたものは、肺を患い療養している主人公が隣町まで歩き続けようとしている、なかばやけくそで滑稽なほどに前向きな、この言葉でした。同様に本巻に収録されている『春の絵巻』(中谷孝雄)『いのちの初夜』(北條民雄)も「死」を描きながら、その先に貫かれた「生」を、鮮やかに浮かび上がらせる作品となっています。生と死は永遠のテーマですが、三作品ともに登場人物が年若いので、今まさに青春の悩みの中にいる方に読んでもらえたら、何かのヒントになるのではないかと思い、特にお薦めします。(Y)