領地をめぐる攻防戦に身を投じる城主は、異国からめとった新妻を城にのこして戦場に寝起きする。冷静にして苛烈な男が激しい動揺に見舞われる瞬間を描いたムシルの『ポルトガルの女』。古代ローマを舞台に、統治者の宿命と人間理解の限界を告発するA・フランスの『ユダヤの太守』。山の古城に響きわたる少年の歌声が、恐怖に萎縮した大人たちの心を解き、目前の危機を調伏していく(ゲーテ『ノヴェレ』)。深い人間観と哲学を秘めた、読むほどに奥行きの広がる名篇三篇。
ムシル Robert Musil 1880-1942
オーストリアの作家。1906年に『幼年学校生徒テルレスの惑乱』で作家デビュー。42年に亡命先のスイスで死去した後は忘れ去られるが、未完の大作『特性のない男』によって再発見され、ジョイスやプルーストと並び称されるようになった。他に『魂の結合』『三人の女』など。
A・フランス Anatole France 1844-1924
フランスの作家・評論家。パリ生まれ。1881年の出世作『シルヴェストル・ボナールの罪』以降、『タイス』『赤い百合』『現代史』『神々は渇く』など、次々と名作を発表。その文章は最も完璧なフランス語といわれ、1924年に死去した際には国葬が執り行われた。
ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe 1749-1832
ドイツの詩人・作家・政治家。フランクフルト生まれ。『若きウェルテルの悩み』などの作品で〈疾風怒濤〉期の代表的作家になった後、シラーとともにドイツ古典主義を確立。ワイマール公国の政治家、自然科学者としても活躍した。その他の代表作に『ファウスト』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』『詩と真実』など。
「城」というテーマに相応しく、ヨーロッパ文学を守る重厚堅固な堡塁のごとき三作家の作品が揃いました。世界文学史にひときわ高く聳え立つ巨峰ゲーテや、ノーベル文学賞受賞者のアナトール・フランスに比べると、オーストリアの作家ムシル(ムージルと表記されることもあります)は、知名度の点ではやや劣っているかもしれません。現在でこそ、20世紀のドイツ語文学を語る上で欠かせない作家と位置づけられているムシルですが、ナチス・ドイツがオーストリアを併合した後、亡命先のスイスで1942年に脳卒中で急死すると、しばらくは忘れ去られた存在となっていました。しかし、トーマス・マンが、 「その死後の名声を私が確信する唯一無二の現存ドイツ作家」と評してムシルをノーベル賞文学賞候補に推したというその言葉どおり、第二次世界大戦後になって再発見されたのです。代表作である未完の大作『特性のない男』は難解と言われることの多い作品ですが、本巻収録の『ポルトガルの女』は幻想文学がお好きな方にお勧めです。(A)