家格の違う家に嫁いだ娘が夫の冷たさに耐えかね実家にもどった。すべてを胸にしまい夜の帰路につく娘の健気さ、哀しみを分け持とうとする庶民の生き方が胸を打つ、樋口一葉の『十三夜』。いつか小さな店をかまえることを願って働く吉次は茶店の若い娘に想いを残して戦地へ赴く(国木田独歩『置土産』)。若き芸術家が集うミュンヘンのカフェで出会ったマリイ。降りしきる雨のなかを疾駆する青春のロマンス(森鷗外『うたかたの記』)。美しい文語の名篇を「総ルビ」で味わう一冊。
樋口一葉 ひぐち・いちよう 1872- 1896
現在の東京・内幸町生まれ。本名は奈津。1892年に処女作『闇桜』を発表。94年末から代表作に『たけくらべ』『にごりえ』など名作を次々と執筆したが、96年に24歳の若さで早世。1年数か月の絶頂期は文学界の奇蹟と呼ばれた。
国木田独歩 くにきだ・どっぽ 1871- 1908
千葉県生まれ。本名は哲夫。記者として活躍した後に小説を書き始め、1898年に代表作の『武蔵野』を発表。1906年の作品集『運命』が高く評価され、自然主義の中心的存在となった。他の代表作に『牛肉と馬鈴薯』など。
森鴎外 もり・おうがい 1862- 1922
現在の島根県津和野町生まれ。本名は林太郎。1884年に陸軍軍医としてドイツに留学。帰国後、軍医学校の教官を務めながら作家活動をおこない、多くの名作を残した。海外文学の翻訳者としての功績も大きい。代表作に『舞姫』や『即興詩人』(翻訳)など。
「きょう」という1日を、ひたむきに生きることでしか人生は前に進まないのだ、と身に沁みて思う夕暮れ。少しずつ宵に変わってゆく街の景色を眺めながら読みたい三篇です。文語体の作品をルビの音と一緒に目で追うことの面白さもさることながら、いつの時代も変わらぬ庶民の暮らしの実感が絶妙に描かれていて、時間を経てもけして古びない言葉の感覚の「新しさ」を感じます。(R)