夕闇が降り、家路にむかう男たちの影もまばらになったが、夫はまだ帰らない。炭鉱労働者の家族を襲った秋の夜の哀しみ(ロレンス『菊の香り』)。友人を見舞って帰る夜、灯りのついた店に入ると、どこからか犬の遠吠えが…。死の影せまる不安な時間(内田百閒『とおぼえ』)。嫁に行った娘が他界した後、残された婿、孫娘と暮らしてきた登利はある重大な決意をする。家族のために自分を擲ってきた女性の鮮やかな心の景色(永井龍男『冬の日』)。胸底にひそむ影の来歴。
ロレンス D.H.Lawrence 1885-1930
イギリスの小説家、詩人。小学校教員を経て、作家デビュー。自伝的小説『息子と恋人』で作家としての地位を確立。『恋する女たち』『チャタレイ夫人の恋人』をはじめ、男女の愛をテーマにした作品は、その過激で大胆な恋愛観と性描写で物議を醸した。
内田百閒 うちだ・ひゃっけん 1889-1971
岡山市生まれ。本名栄造。中学時代より夏目漱石に心酔し、門下生となる。東大卒業後、大学などでドイツ語を教えながら執筆を続け、随筆集『百鬼園随筆』がベストセラーに。風刺とユーモアに満ちた名随筆は多くの読者を獲得した。代表作に『冥途』『旅順入城式』など。
永井龍男 ながい・たつお 1904-1990
東京・神田生まれ。16歳で応募した懸賞小説が菊池寛に評価される。1927年に文藝春秋社に入社。雑誌の編集に携わり、芥川賞・直木賞の設立にも関わった。戦後は執筆に専念、多くの名短篇を残し、81年に文化勲章を受章。代表作に『朝霧』『コチャバンバ行き』など。
遠くでじりじりと虫の音が聞こえる。じっと聞き入っているとなぜか怖くなる。あれは何なのか――。描かれているのは日常だ。炭鉱だったり、見舞いの帰りだったり、引越しだったり。なのに、夕暮れに忍び寄る影は、人生の相貌を一変させる力をもつ。そんな瞬間を描いた作品が3つ。特に永井龍男の『冬の日』のラストシーンが忘れられない。燃えさかる冬の荘厳な夕日に、ひとりの女性の見知らぬ情熱が流し込まれたときの圧倒的な光景が、目に焼きついて離れないのだ。(N)