ベートーヴェンへの憧憬が貧しい青年音楽家をウィーンへと駆り立て、感動の対面をはたす『ベートーヴェンまいり』(ヴァーグナー)。素晴らしい美声を持つ愛娘に、父はなぜ歌うことを禁じたのか? 変人といわれた男の胸に秘められた想い(ホフマン『クレスペル顧問官』)。幼い浮浪者だった「私」を救ってくれた少女ニネット。前途に輝く成功のため「私」は温かい思い出を捨てた…(ダウスン『エゴイストの回想』)。音楽にまつわる、至福の、あるいは物狂おしい若き日の回想。
ヴァーグナー Richard Wagner 1813-1883
ドイツの作曲家、指揮者。バイエルン国王の援助を得て、音楽、詩、演劇を総合した楽劇を創始、台本もすべて自作した。代表作に『トリスタンとイゾルデ』『ニーベルングの指環』など。
ホフマン E.T.A.Hoffmann 1776-1822
東プロイセン生まれの作家。多彩な芸術的才能に恵まれ、司法官、音楽家、画家としても活動。怪奇的幻想的な作風は、ポーやボードレール、ドストエフスキー、アンデルセンらに影響を与えた。他に『砂男』『くるみ割り人形とねずみの王様』など。
ダウスン Ernest Dowson 1867-1900
イギリスの詩人、作家。ボードレールらフランス詩人の影響を受け、繊細な抒情詩を書く一方、短篇も執筆。若い頃両親が自殺し、貧困と悲恋、結核などの不運が相次ぎ、32歳で夭折した。代表作に『たまゆらのピエロ』『ディレンマ』など。
いまや19世紀ドイツを代表する作曲家のリヒャルト・ワーグナーが、小説を書いていたことご存知ですか? 音楽にまつわる海外作品三篇で編まれた本書のなかでも、私のおすすめはこのワーグナーの『ベートーヴェンまいり』。「尊敬するベートーヴェン先生」に会いたいと、ウイーンを訪ねていく作曲家が主人公の物語です。憧れの人を想うその独特の高揚感、闖入者イギリス人への極度な警戒心、ついに面会を果たしたときの畏れと歓びが、思い入れたっぷりに語られて、引き込まれます。小説は生涯に三作しか残さなかったワーグナー、作曲家としてまだ芽が出ず、経済的に苦しかった時代に発表された作品ですが、みごとな原動力と生命力をもらえます。(S)