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 ○プロローグ

 ぬちゃ、ぬちゃ、ぬちゃ、ずぷっ。
 しんとした台所に、糠床を混ぜる音が響く。辺り一面に糖の香りが広がっているのを、思い切り吸い込んで樽の底からかき混ぜては、表面部分をまた奥へと混ぜ込む。
 もう何10年もの日課。これをしないと、私の朝は明けないのだ。
 150年間、母から、祖母から、曾祖母から・・・・・・代々受け継がれてきたこの糠床は、いわば我が家の家法だ。
 一回かき混ぜるごとに、気合を入れなおし、また樽の底へと腕を突っ込んでいく。樽の中の野菜が傷つかないように、優しく、けれども、しっかりと。
 結婚式の朝も、健太郎がお腹に宿ったときにも、健太郎の受験や就職試験のときにも、あらゆる人生の節目節目にそうしてきたように。
 そして、今日は特に念入りに・・・・・・。
「うまくいきますように」まぜる。
「どうか、うまくいきますように」まぜる、まぜる。
 混ぜ終わったら平らにならし、ふちについた糠を丁寧に拭きとり蓋をして、暗所にしまった。
 ふぅ・・・・・・。
 しっかりと漬かった人参ときゅうりについた糠を洗い落とし、包丁を入れた。
 サクッ。なんて鮮やかで美しいんだろう。思わず、うっとりと眺めていると、パッポウ、パッポウ、パッポウ、パッポウ、パッポウ、パッ、パッ、パッポウ、パッポウ。
 居間の古い鳩時計が7つ、調律の狂ったまぬけな泣き声を立てた。

「おはよう」
 いつも通りに健太郎が自室から降りてくる。
 念入りにアイロンをかけたYシャツに、濃紺に淡いブルーの線が繊細に入り組んだ模様のネクタイが健太郎の実直さを表すかのように、まっすぐに垂れている。
 このネクタイは健太郎の25歳の誕生日に私が選んだものだ。
 椅子に座ると、ネクタイを丸めて、Yシャツの胸ポケットに丁寧に仕舞う。
 食べてからネクタイを巻けばいいのにと思うけど、これが健太郎なりの朝の食事の儀式だ。
 顔の大きさに対して、少し大きすぎる黒縁メガネのレンズに、縁側から差し込んだ光が反射して、まるでウルトラマンのよう。
「いただきます」
 しっかりと手を合わせてから、食事を始める姿は、わが息子ながら微笑ましい。

 (続)