1983年のほたる
今、何か言った気がする。
ひざの上に開いた社会のテキストに目を落としたまま、じっと耳を澄ましてみる。けれど聞こえてくるのは、お腹をなでられるような感触の、バスのエンジンの深いうなりと、三センチほど開けた窓から、ひゅるひゅるととぎれとぎれに入ってくる風の音だけだ。
少しあごを引いたら、おでこの前に前髪が垂れ下がった。すだれみたいにして、そのすき間から運転席のほうをのぞき見ようとしたけれど、完全に目を隠すには長さが少し足りない。わたしはますます、ぐいとあごを引いた。やっぱり、匂坂さんのまねなんかして、こんなに前髪を切るんじゃなかった。おばあちゃんは、「長いのより可愛いよ」なんて言ってくれたけれど、おばあちゃんはわたしのことなら何でもそいう言うんだから、なぐさめられたからと言って、安心していいわけじゃないことくらい、そろそろわからなくちゃいけない。
先週の「日曜テスト」の日、算数の試験が終わった後にトイレに行って、順番待ちの列に並んだら、わたしの前に立っていたのは匂坂さんだった。背中の真ん中くらいまでかかった長い髪が、さらさらと音を立てるのが聞こえるようだった。
そんなに近くに寄るのは初めてだった。匂坂さんとはしゃべったこともない。たぶん向こうは、わたしの名前も知らないと思う。匂坂さんみたいな人は、毎週配られる「日曜テスト」の結果表も、一番上の五、六人を見るだけで、用事が終わってしまうはずだから。何十人という塾生の名前が並んだ下のほうに、ようやく自分の名前を見つけることのできる週が「あったりなかったり」というわたしは、クラスも違う、顔も知らない人たちのフルネームも、もうずいぶん暗記してしまった。
結果表には、素敵な名前がとりどりに載っていた。「麗奈ちゃん」「芙莉香ちゃん」「うららちゃん」「桃葉ちゃん」・・・わたしの学校の名簿には、一つも見当たらないような名前。でもああいう村で、そんな名前の子がいいたとしたら、それはそれでおかしな感じがすると思う。
中でも「匂坂月夜」という名前のかがやき方は、特別だった。
四週連続で結果表の一位を飾った「匂坂」という字が、わたしは最初読めなくて、帰りのバスが梁瀬町まで一緒の佐野さんに、「ねえ、『におうざか』って人、おんなじクラス?」とたずねたことがある。
佐野さんは歯列矯正の金属が、ツタのようにからみついた歯をむき出して、シイシイと笑った。そして「でも国語の角田先生だって読めなかったんだからさ」と言いながら、中年のおじさんが会社の部下にするような手つきでポンポンとわたしの肩を叩いた。
「サキサカさんて、どんな人」
「名前間違えられても、別に、って感じの人」
「美人?」
「ドブス」
「へえ」
「うそ。美人だよ。今、ちょっとうれしそうな顔したね」
「してないよ」
「ふふん。世の中不公平なんだよ、鳥飼君」
「そんなのわかってるよ」
「シシシ」
「“小倉明日香”とどっちが可愛い?」
「うーん。あたしは“小倉明日香”の可愛さっていまいちわかんないからなあ。派手だし。やっぱり匂坂さんじゃない? まあ、『可愛い』ってタイプでもないけどね」
バスの窓から吹き込む風に、佐野さんの鼻の下にうっすらと生えそろっている黒い産毛が、かすかに揺れていた。何だか背中がぞくっとするほど不潔に思えて、許せない気持ちになった。早く梁瀬町に着いて、佐野さんが降りてくれればいい、と思った。
(続)